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人の生き死にと云う事

先日、元NHKアナウンサーで乳がん罹患者が亡くなった、という記事が
新聞に掲載されていた。
この人の連載コラムを当初は興味深く読んでいた。

しかし、いつの頃からだったか、なんだか段々この人の死んでいく様を
自分達はそれと知りつつじっと息を凝らしてみているような気がして
来て、また、間に別の連載も入ったりした事も影響して最後の方は、
単にあ、記事出ている・・・程度で流していた。関心も薄れてはいた。

がんという病気は、ある日、がんの方が凌駕するまでは、人は確かに
元気満々と云うわけではなくとも、ある程度通常の状態でいられる。
消化器系のがんでもやはりそうだ。昨日まで普通におしゃべりして
いたのに・・・ってのが、がんの特徴の様に見える。消化器系がんの
末期だった父・母を看取って実感したし、在宅ホスピス医のN島先生も
同じ様なことを言っていた。

だからこそ、がんの末期の人が書いたものを読んでいると上記の様な
気にさせられてしまったのだ。何か自分達がこっそりと悪い事をそれと
知りながら覗き見している様な後ろめたい、気持ちにさせられてしまっ
ていた。

だが翻って考えるに、人の死は何も病気・健康で違いがある訳では
ない。
生きとし生けるもの等しくみな死ぬ。
死を一度たりとも身近なものとして経験しないと死は怖いものかも
しれないが、ならばとて、永遠不滅の生が最高かというと、これも
また死と同様極めて怖い代物である。永遠に生き続ける事の恐怖は
死の恐怖と何ら変わらぬ、いやそれ以上に怖いものの様に思える。

道半ばにして死んでいくのは残念な事かも知れないが、結局の所
人間は毎晩眠るという行為により死の実地訓練をしているのであり、
寝ていた時の事を思い起こしても恐怖にはつながらない様に死その
ものは問題ではない。
いつか死ぬという事実が若いときは怖いのである。

歳とりゃ、やれ腰が痛いだのひざが痛いだの痛いとこだらけになって、
生きていることの方が苦しくなってくるものだ。

で、本題にもどると、先に亡くなった人の書くものを後ろめたい気持ち
で読んでいたと言ったが、人間が必ず死ぬ以上、現在は健康に見え
る人が書いたものをずっと読み続けている事も実はがん末期の人の
書いたものを読み続ける事と同じ事なのだと解かる。
ならば、余命いくばくもないといわれた人の書くものを読み続ける時に
後ろめたい気持ちになる必要はないとも言える。

単に痛ましくてみていられない・・というのは読み手のひ弱さなのかも
知れない。

絵門ゆう子さんに合掌。

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